ヤマメは哲也の大好きな魚の一つだ。
哲也の家は多々良川という川のすぐそばにあり、釣りや魚とりには困らない環境であった。
しかし、哲也の住んでいた篠栗というところは盆地的な場所であり、三方を山に囲まれ、一方が福岡市へと抜ける通りになっている。
多々良川が近いが、このあたりは川の中流といったところだ。
フナやコイ、ナマズやオイカワなど魚種も豊富で、毎日狙う魚を変えて釣っても楽しめるほどだが、さすがにヤマメのような渓流に棲む魚はいない。
だが、ヤマメを釣ったことがないわけではない。
父に連れていってもらい、釣ったことがある。
と言っても県外の川である。
自分で多々良川の上流まで自転車で長時間かけて向かったこともあるが、それでも釣れたのはオイカワやムギツク、それにアブラハヤだ。
おそらくヤマメはいないだろう。
そう思っていた。
なので、哲也にとってはヤマメは憧れの魚だったのだ。
本などでヤマメの姿を見ては、いいなぁとため息をついていた。
父にそうそう連れていってもらうわけにもいかない。
小学生の哲也に、一人で地元から離れた遠い渓流に行けるはずもなく、ヤマメへのあこがれは強まる一方であった。
高学年のころ、哲也はふとしたことから
篠栗に「新四国八十八か所霊場」というのがあるのを知った。
もともとはこのころ歴史に興味を持ち、空海などのえらいお坊さんの存在を知って、いろいろな本を読んだり調べたりしていた。
そのとき、真偽は哲也にはわからなかったが、
篠栗に空海がやってきて、八十八か所の霊場を開いたと言われているらしいことを知った。
哲也は教科書に載るような人物が、自分の住んでる町に来たことがあると思うとわくわくした。
そして八十八か所を回ってみたいと思った。
そして哲也は、家から一番近いところにまず行って、しおりをもらってきた。
一日では無理だが、5日~10日ほどまわれば制覇できそうだった。
哲也は全部まわれるかはわからないが、とにかく一度行ってみようと思った。
最初に家から遠いところを選んだ。
理由はもちろん、あとが楽になるようにするためだ。
ある日曜日、哲也はばあちゃんに水筒とおにぎりを準備してもらった。
そして朝早めに家を出て自転車をこぎだした。
地図ではわかりにくいが、多々良川に流れ込む小さな支流にそって、山道を上っていかなければならない。
おそらく途中からは自転車がこげず、押していくことになるだろう。
それを見越しての早い出発だ。
行きさえがんばれば帰りは下りばかり。自転車なら超楽ちんだろう。
とにかくがんばって目的地に進む。
信仰心があるわけでもない男子の、気楽な一人旅の始まりである。