哲也は慌てて帽子を取り去ると、竿のほうを見た。
「やばい!」
竿が竿たてから抜けそうになり、竿先は水面についている。
哲也は急いで竿を握った。
もう少しで竿が池の中に引き込まれるところだった。
哲也は決して平らではない岸で、ごろごろころがる大きな石に足をとられながら、なんとか体勢を整えた。
直径5~60cmはあろうかという大きな岩の後ろに立ち、その岩で足を突っ張らせてふんばる。
そして竿を立てた。
その瞬間腕にグググググッとものすごい振動が伝わり、魚が走るのがわかる。
恐ろしいヒキの強さ。
これまで経験したことのない強さに、哲也は正直恐怖を感じていた。
そしてそれがコイだろうと思った。
それまでに20~40cmクラスの鯉を何度か釣ったことがある。
20cmや30cmクラスでも、コイはフナとは違い、強いヒキを楽しませてくれる。
40cmを超えたものがかかったときは、かなりの強さでグイグイと沖へと走られた。
そのときの記憶を鑑みても、圧倒的にそれらより力が強い。
今では考えられないほど、小学生のころの哲也は小さくやせこけていた。
当然非力だった。
竿をぐっと握りしめ、なんとか竿を立てるが、リールが巻けない。
どうすればいいんだ?
と考えた瞬間、ふと引っ張られる力が抜けた。
「バレた・・・。」
※バレる=かかった魚がはずれ、逃げられること。
そう思った瞬間、張りつめていたものが一気に抜けた。
竿を握る手の力も抜けた。
今までピンと張っていた糸がだらりとたるむ。
がっくりきたのと、恐怖から逃れた安心感とが入り混じった複雑な気持ちだった。
哲也はゆっくりとリールを巻いた。糸のたるみがだんだんとれてきた。
すると、なんか抵抗を感じた。
「あれ?なんか引っ張られた気がする・・・。」
そう口走ったと同時に、急激に糸がジグザグに動いた。
おそらく、いったん沖へと突っ走ったあと、今度は岸に向かってゆっくりと泳いだのだろう。
そのあと、リールを巻いたことでコイが引っ張られていることに気づき、ジグザグに動き出したのだ。
またあのすごい力が哲也の細腕を襲う。
「ダメだ!強すぎる!」
そんな絶望感の哲也に追い打ちをかけるように、獲物は水をドカーンと破裂させ、大きくジャンプした。
「でかい!」
とんでもない大きさだった。これまで釣ったコイたちの2倍はある。これを見てまた足がすくむ。
普通ならバシャンとかボチャンとか聞こえるんだろうが、このときの哲也の耳には確かにドカーンと聞こえた。
何かが爆発したかのような炸裂音。
また糸がたるむ。バレたかと思った瞬間またエラ洗いがくる。
もういいようにやられていた。
哲也はとにかく竿を立てて、魚が向かった方向に体の向きを変えるだけで精一杯。
岩の後ろでなかったら、竿ごと自分も水中にドボンだ。
うでがしびれる。
小学生の哲也には、もううでが限界だった。
これは勝てない・・・。
こんなチャンスは二度とないかもしれない。
しかし、残念ながら今の哲也にはどうすることもできない。
哲也は非力さに涙があふれてきた。
こんな大物をあきらめなければならないのか?
でも腕がもたないし、何より危険を感じる。
貴重な竿とリールをくれてやるわけにはいかない。
哲也の脳裏に浮かんだのは、糸を切るという選択肢だった。